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郡山医師会100年の流れ

郡山医師会100年の流れ

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はじめに

明治戊辰の戦を境に、怒涛の勢いで西洋医学が浸透し、医療界にとって、まさに新時代を迎える。
医師法はじめ薬剤取扱いや医師免許など、江戸時代にはなかった制度が導入され、統一国家のもと組織・管理化されていった。
明治16年(1883)内務省は「開業医組合設置法」を発布、全国各県各郡ごとに組合を設置させ、①医術を研究しその進歩を図る事。②地方病の原因を探求の事。③伝染病を予防の事。公衆の健康を保持増進する事。を規定した。
安積郡ではこの年5月、「郡山医者懇談会」を開き、熊田貞庵・熊田元鳳・村山玄澤・堀静・熊田修司(郡山)・吉田文中(久保田)・栗山弘斎(福原)・全田貞幹(日和田)・佐藤忠次(高倉)・高解造(荒井)・吉富俊三(久留米)・岡崎俊明(土州)ら12名が集まったとある。これが郡山での医師の集いの嚆矢である。

 

〈安積郡医師会時代〉明治40年(1907)~大正13年(1924)

明治27年(1894)日清戦争、明治30年(1904)日露戦争後、政府は明治39年(1908)11月、医師法に基づき郡市、道府県に医師会設立の規則を制定。
これにより福島県医師会が明治40年11月創立され、同じく郡山にも「安積郡医師会」が設立された。
安積郡医師会は、その名が示すように、江戸時代から続く行政区域の安積郡(郡山・大槻・片平)がそのエリアであった。

安積郡医師会時代

当時郡内には3病院(明治20年開業の寿泉堂病院・明治28年開業の太田病院・明治32年開業の郡山病院)と医師40名、薬剤師2名、看護婦20名、産婆35名が地域医療に携わっていた。
初代安積郡医師会長には湯浅為之進が就任した。湯浅は明治20年7月16日開業したばかりの東北線に乗り、終着駅の郡山に降り立った。そして8月20日誕生日に寿泉堂病院を開業。
明治42年(1909)2代目医師会長となったのは太田三郎で、太田は明治28年に中町に太田病院を開業した。
明治45年(1912)3代目医師会長となったのは、明治33年清水台に郡山病院を開業した佐藤春三郎である。就任した4月、「安積郡産婆看護婦養成所」が創設され、その初代所長も兼務した。
大正時代になると、第一世界大戦となり、大正4年(1915)7月、安積郡医師会は「社団法人安積郡医師会」と改組される。
大正8年になると医師法が改正され、「医師会令」が施行、全国に「郡市区医師会」設置が義務づけられ、更に各郡市区医師会はまとまって各道府県医師会設立を命じられた。そこで大正9年(1920)、改めて勅令による「安積郡医師会」が設立され、会長佐藤春三郎・副会長藤田誠一郎(片平)・理事人見友衛・岩路軍次郎・太田一郎・三浦己吉・常議員太田三郎・湯浅為之進・熊田修司・本田通之助(多田野)・八木澤左喜(穂積)・関川亀治(喜久田)・鈴木粂造(月形)、会員数42名でスタートする。
大正13年(1924)9月1日、郡山町は隣接する小原田村と合併し、人口39,003人で市制施行する、市制を敷いたことで、安積郡医師会は
「郡山市医師会」と「安積郡医師会」とに分離された。この時、安積産婆看護婦養成所は、郡山市医師会に移管された。

〈郡山市医師会時代〉大正13年(1924)~昭和17年(1942)

郡山市医師会時代

市制施行により「郡山市医師会」(会長佐藤春三郎)となったが、第一次世界大戦後の不景気と、昭和4年(1929年)世界恐慌が起こり、昭和6年満州事変が勃発、東北は大凶作。
このような世情に昭和7年(1932)郡山市医師会は、貧困者の済生救済を目的に「郡山市医師会診療所」を開設した。

昭和10年(1935)、岩路軍次郎が会長に就任し、昭和12年太田三郎は福島県医師会長となる。
この年、郡山市医師会長は人見友衛に変わる。(会員数49名)
昭和13年、国家総動員法が公布され、戦局は次第に厳しく、翌14年には国民徴用令が公布された。そんな中、郡山医師会は皇紀二千六百年を記念して「人の和ハ我が医師会伝統の美風にして其の業蹟と共に蓋し天下の模範たるべし」の記念碑を建立する。(会員数52名)
昭和16年、郡山市医師会長は三浦己吉が就任するが(会員数52名)、戦時下のもと再び郡山市医師会と安積郡医師会は合併され、「郡山医師会」となる。(会員数72名)

〈福島県医師会郡山支部時代〉昭和18年(1943)~昭和22年(1947)

昭和18年、戦時下特別法により、県内医師会は福島県医師会のものに吸収され、支部組織となる。郡山医師会も福島県医師会郡山支部となる、三浦己吉は郡山支部長と称し、終戦まで続く。
昭和20年(1945)8月、終戦と共にわが国はアメリカのGHQの占領下におかれ、戦時医療諸法令は廃止される。この年、郡山医師会長には吉田賢治が就任する。
敗戦と共にあらゆる制度は廃止、見直され混乱が続くが、翌昭和21年1月1日、天皇は神格否定の詔書「人間天皇宣言」を発表、ようやく復興へと立ちあがる。この年11月「日本国憲法」が発布された。

〈社団法人郡山医師会時代〉昭和22年(1947)~平成19年(2007)現在

社団法人郡山医師会時代

昭和22年4月、義務教育の「六・三制」がスタートし、10月1日GHQは「医師会を特別法人に認める」との指令を出す。
これにより11月1日、「社団法人郡山医師会」が稲荷町30番地に誕生、新生医師会として誕生する。会場鳥海克己、副会長松井元。
鳥海会長は、大正4年(1915)東大佐藤外科より寿泉堂病院に勤務し、大正10年(1921)ドイツフライブルグ大学に留学、2年後寿泉堂病院に戻り昭和7年(1932)清水台に安積病院を開業。
近代医学を地域医療の場で実践し、将来の郡山医師会の方向性を提示した。これ以降は、会長を中心に年表的に記す。

昭和31年3月
郡山高等厚生学院が火災となり、校舎はもちろん郡山医師会事務局も全焼する。(会長今泉信一、会員120名)
昭和40年
昭和の大合併のもと、郡山は1市12町村が大合併、今日の市域となる。(人口223,237人)この時、田村郡医師会の一部が郡山医師会に編入される(会長樺澤巽、会員数116名)
昭和42年11月
新生郡山医師会20周年記念大会開催(会長桜井誠、会員数139名)
昭和50年4月
郡山医師会が全面協力して「郡山市休日・夜間急病センター」開院する。(会長山下幸雄、会員数168名)
昭和53年
小中学校保健優秀校に「郡山医師会賞」授与事業を開始する。(会長古川虎司、会員数176名)
昭和62年11月
郡山医師会40周年記念シンポジウム「新しい医師像を求めて-医療と保健の接点」開催。(会長嶋多門、会員数282名)
平成元年10月
「郡山医師会地域保健医療活動年報」発行(会長丹治芳男、会員数312名)
平成2年4月
嶋多門先生、福島県医師会長に選出される。また11月、(財)郡山市保健センター新築落成し、郡山医師会事務局が移転する。(会員数336名)
平成5年6月
郡山医師会に「郡山地域産業保健センター」設置される(会員数374名)
平成8年4月
坪井栄孝先生、日本医師会長に選出される。(会長菊池辰夫、会員数453名)
平成9年10月
(社)郡山医師会50周年記念式典を開催(会員数457名)
平成12年10月
坪井栄孝日本医師会長は、世界医師会長に就任する。(会員数520名)
平成18年6月
指定管理者制度による郡山医師会運営の「郡山市医療介護病院」開院する(会員数625名)
平成19年11月
郡山医師会(前身安積郡医師会)発足100周年記念式典を開催(会員数667名)
平成26年4月
一般社団法人郡山医師会へ移行(会員数627名)

社団法人郡山医師会時代その2

大合併による広域郡山医師会時代

(更新日:令和3年3月1日)

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